※この記事は『Tシャツが乾くまで』最終回までのネタバレを含みます。
『Tシャツが乾くまで』が終わった。
このドラマが始まって5話くらいの頃、私は「『Tシャツが乾くまで』の何が面白いのか」という記事を書いた。

その後も新しい事実が分かるたびに追記していき、かなり長い記事になった。
ありがたいことに、最終回が終わった今も、その記事を読みに来てくださる方がいる。
でも、最後まで見終わった今、改めて思う。
私は途中まで、このドラマの面白さを違うところに見ていたのかもしれない。
もちろん、先が読めないことは面白かった。
充とあずさは不倫していたのか。
なぜ毎月、第3金曜日に会っていたのか。
充はなぜ事故のバスから降り、そのままいなくなったのか。
咲子と樹生はどうなるのか。
毎週のように新しい謎が出てきて、「どういうこと?」と思わされた。
でも最後まで見てみると、このドラマが面白かった理由は、謎の答えを知ることだけではなかったように思う。
むしろ、
私たちが人と人との関係を、勝手に決めつけて見ていること。
それを何度もひっくり返されたこと。
そこに、このドラマの一番大きな面白さがあったのではないだろうか。
最初から「フィルター」のドラマだった
脚本を担当した生方美久さんは、放送開始前から、この作品について「共感や感動を目指した物語ではない」とし、「人間観察」のような感覚で楽しんでほしいとコメントされていた。
さらに放送途中のインタビューでも、「自分には想像できない言動をとる人間を見る面白さ」があり、少し距離を取って“フィルターを通して見る”ような見方も勧められている。
今になって、この言葉がものすごく腑に落ちる。
ドラマの中には、最初から「好きな人フィルター」という言葉が出てきた。
でも、フィルターをかけていたのは登場人物だけではなかった。
見ていた私たちも、ずっとフィルターをかけていたのではないだろうか。
男女が毎月二人で会っていたら、不倫だと思ってしまう
既婚者である充とあずさが、家族には言わず、毎月第3金曜日にコインランドリーで会っていた。
それを知ったら、どうしても考えてしまう。
「この二人、不倫していたのでは?」
花火大会のチケット、水族館のチケットまで出てくる。
ますます怪しい。
私も完全にその方向で見ていた。
ところが違った。
二人の間には、確かに他の人には入りにくい特別なものがあった。
でも、それをそのまま「恋愛」や「不倫」と呼べる関係ではなかった。
ここで気づかされる。
私は、
既婚者の男女が秘密で二人で会う=恋愛関係
というフィルターを、最初からかけていたのだ。
咲子と樹生にも、勝手に名前をつけたくなった
咲子と樹生の関係もそうだった。
お互いに配偶者を失った二人。
一緒にいると話しやすく、どこか居心地もいい。
だから見ている側は、だんだん思い始める。
「もしかして、この二人が一緒になるのでは?」
私もそう思った。
充より樹生といるときの方が、咲子は気楽そうにも見えた。
実際、生方さんも咲子と樹生について、似た境遇だから惹かれる部分もあれば、違うからこそ安心する部分もあり、ただ「恋愛にすぐ踏み込むのは違う」という感覚で関係を作ったと話している。
つまり、ここでもまた、
男女が親しくなったら、その先は恋愛
という私たちのフィルターが試されていたのかもしれない。
男女であっても、名前をつけにくい関係はある。
友達と言うには少し違う。
恋人でもない。
家族でもない。
でも、大切な人。
このドラマには、そういう関係がたくさん出てきた。
そして咲子と充は「好きなのに別れる」
最終回で、一番印象に残ったのはやはり咲子と充だった。
充が帰ってきた。
二人は、それまで言わなかったことを話した。
秘密もかなり分かった。
これでやっと夫婦としてやり直せる。
普通のドラマなら、そうなりそうなところだ。
でも、うまくいかなかった。
充は咲子に嫌われないように気を遣い、咲子は充がまたいなくなるのではないかと怖がる。
公式の最終回あらすじにも、そんな二人の生活を咲子が「居心地が悪い」と感じ、別れを切り出すことが書かれている。
ここも興味深い。
夫婦は、何でも話せた方がいい。
秘密はない方がいい。
本音を言い合えば、関係はよくなる。
私自身も、なんとなくそう思っているところがある。
ところが、この二人は秘密を知ったあと、それまでより幸せになったわけではなかった。
むしろ、お互いを意識しすぎてしまった。
知らなかった頃には成立していた距離が、知ったことで崩れてしまった。
相手のことを全部知ることと、相手と心地よく一緒にいられることは、同じではない。
このドラマは、そんなことまで見せてきたように思う。
「好きなら一緒にいる」も絶対ではなかった
そして、私は最終回を見ながら何度も思った。
そこまで好きなら、別れなくてもいいのではないか。
充は別れたくない。
咲子だって、充を嫌いになったわけではない。
二人で最後の洗濯をして、洗濯物が乾いてしまわないように、こっそり霧吹きまでかける。
離れたくないことは、どう見ても伝わってくる。
それなのに別れる。
でも、たぶんそこがこのドラマだったのだ。
好き=結婚する
好き=一緒に暮らす
離婚=関係が終わる
そういう分かりやすい式から、最後まで逃げ続けた。
咲子は充に、「家族をやめて、もっと楽な関係になろう」という思いを伝える。
そして二人は、完全に縁を切るわけではなく、夫婦という名前を外す。最終話そのものにも「名前のない関係になるまで」というタイトルが付けられている。
これが、このドラマの一つの答えだったのではないかと思う。
人間関係には、必ず名前が必要なのだろうか
考えてみれば、私たちは人との関係に、すぐ名前をつける。
夫。
妻。
恋人。
友達。
元夫婦。
不倫相手。
家族。
確かに、名前があると分かりやすい。
でも、その名前に人間関係のすべてが収まるわけではない。
充とあずさは何だったのか。
咲子と樹生は何なのか。
離婚したあとの咲子と充は何なのか。
きれいに説明しようとすると難しい。
でも、最終回まで見たあとでは、
別に説明できなくてもいいのではないか
と思えてくる。
「この二人はこういう関係です」と他人に説明するための名前より、本人たちが居心地よくいられる距離の方が大切なのかもしれない。
第9話あたりで、私は正直かなり戸惑った
ここまで書くと、最初から最後まで「なるほど」と納得しながら見ていたように見えるかもしれない。
全然そんなことはなかった。
特に終盤、咲子の過去がどんどん明らかになり、イノッチ演じる元夫まで登場したあたりでは、
「変わった人が多すぎる」
と思った。
それまで私が好きだった少しシリアスな空気から、急にコメディっぽさも強くなり、「これはどこへ向かっているんだろう」と戸惑った。
正直、7話くらいまでの雰囲気の方が好きだったという気持ちは、今もある。
でも、最後まで見た今では、その「理解できなさ」自体も、このドラマには必要だったのかもしれないと思う。
生方さんは「夫婦」について調べれば調べるほど「人それぞれすぎる」と感じたという。そして「夫婦の在り方に正解はない」と話されている。
考えてみれば、咲子も充もあずさも樹生も、こちらが考える「普通」の枠にきれいに入る人ではなかった。
だから私は何度も、
「普通はそんなことしないでしょう」
と思った。
でもたぶん、このドラマはずっと、
その「普通」って誰が決めたの?
と問い返していたのだと思う。
『Tシャツが乾くまで』というタイトルも、最後まで見て変わった
生方さんは、もともとコインランドリーや「洗濯」をメタファーにした作品を考えていたという。
タイトルを決める際、Yシャツという案もあったが、Yシャツでは不倫のイメージが強くなるため、男女差の少ないフラットなものとしてTシャツになったそうだ。
最初の頃、タイトルの「Tシャツが乾くまで」は、充とあずさがコインランドリーで話していた時間を表しているように見えた。
でも最終回では、その意味が変わった。
今度は、咲子と充が別れるまでの時間になった。
「全部乾いたら、行くね」
乾かなければ、まだ一緒にいられる。
だから二人とも、こっそり洗濯物を濡らす。
こんなに『Tシャツが乾くまで』というタイトルが切なく感じるとは、最初の頃には思わなかった。
でも、洗濯物はいつか乾く。
ずっと濡れたままにはしておけない。
それは、人との関係も同じなのかもしれない。
ずっと同じ形のままではいられない。
変わってしまったら、そのときの自分たちに合う形を探す。
離れることもある。
また戻ってくることもある。
名前のない関係になることもある。
結局、『Tシャツが乾くまで』の何が面白かったのか
途中までの私は、このドラマの面白さを、
「充とあずさの秘密は何なのか」
「充はどこへ行ったのか」
「咲子と樹生はどうなるのか」
という、答えを知りたい面白さだと思っていた。
もちろん、それもあった。
でも最後まで見て、一番面白かったのは別のところだったように思う。
人を見て、
「この人はこういう人」
「この二人はこういう関係」
と思った途端に、それをひっくり返される。
不倫だと思ったら違う。
恋愛になると思ったらならない。
好きだから夫婦を続けると思ったら別れる。
離婚したら終わると思ったら、終わらない。
こちらが名前をつけるたびに、
「本当にそう?」
と聞かれているようだった。
土井裕泰監督も、このドラマについて、会話の始まりと終わりで人間同士の関係性がどう変化したか、その積み重ねが面白さだと話している。
なるほどと思う。
このドラマは、大きな事件の答えを探す物語のように始まった。
でも本当は、
人と人との距離が、少しずつ変わっていくのを見るドラマだったのかもしれない。
最後まで見て、やっと分かった気がする
結局、このドラマが何を言いたかったのか。
もちろん、脚本家が一つの答えを用意しているとは思わない。
生方さん自身が「夫婦の在り方に正解はない」と言っている作品なのだから、見る人によって答えが違っていいのだと思う。
私が最後まで見て受け取ったのは、
人との関係は、名前や世間の「普通」に合わせなくてもいい。
ということだった。
夫婦だからこうしなければいけない。
男女だからこうなるはず。
好きなら一緒にいるべき。
別れたら終わり。
そんな決まりはない。
二人にしか分からない関係があってもいい。
そのときの二人にとって、一番居心地のいい距離を探せばいい。
『Tシャツが乾くまで』は、そんな「正解のない人間関係」を、10話かけて見せてくれたドラマだったのではないだろうか。
途中では、分からなくなった。
「何を考察したらいいのだろう」と思ったこともあった。
それでも毎週気になった。
終わったあとも、こうして考えている。
そう考えると、
簡単に答えが出なかったこと自体が、このドラマの面白さだったのかもしれない。
そして最後まで、答えを教えてくれなかった
もうひとつ、最終回が終わってからずっと気になっていることがある。
ラストシーンで、咲子の家の庭に干されていた洗濯物だ。
その中に、どう見ても男性ものに見える白いTシャツがあった。
あれは、誰のTシャツだったのだろう。
私はどうしても、樹生のものではないかと思ってしまう。
咲子と樹生が一緒に暮らすようになった、ということなのだろうか。
でも、それならそれで、このドラマが最後まで描いてきた二人の関係を考えると、あまりにも簡単に「恋人になった」「一緒に暮らしている」と決めつけるのも違うような気がする。
一方で、あのあと訪ねてきたのが充なのだとすれば、久しぶりに帰ってくる充の服を、咲子が洗濯してあげていたとも考えられる。
そう思うと、それもこの二人らしい気がしてくる。
離婚した。
夫婦ではなくなった。
それでも、充のTシャツが咲子の家で洗われ、庭に干されている。
そんな関係があっても、このドラマなら不思議ではない。
結局、あのTシャツが誰のものなのか、正解はわからない。
樹生のものなのかもしれない。
充のものなのかもしれない。
もしかすると、まったく別の意味なのかもしれない。
でも、このドラマを最後まで見たあとでは、「誰のTシャツなのか分からない」ということまで、妙に『Tシャツが乾くまで』らしく思えてしまう。
最後の最後まで、
「この二人はこういう関係です」
と答えを決めさせてくれない。
視聴者が「きっとこうだ」と名前をつけようとすると、また少し分からなくなる。
なんとも、にくい終わり方だった。
そして私は今も、あの白いTシャツが誰のものだったのかが気になっている。
Tシャツは乾いた。
でも、このドラマについては、まだしばらく考えてしまいそうだ。





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